海等での水難事故のあった家庭では「正月祀(ショウガチドウトゥ)(ショウガチニゲー)」と云って、家族兄弟等で霊に供養する。これを懇ろに行わないと家族に祟りをもたらすとされる。以後毎年一族の中で本家に当たる人々によって執り行われる。供養をしてからでないと、正月を祝えないと云う心情からか早朝に行い、その後正月の行事に入る。
「八月祀(パチガチトウトゥ)(パチガチニゲー)」は、八月一日に、生前に功績のあった人を供養する。例えば、為政者、役場の職員、大工、宗教関係者、十五夜踊りの当事者等。原則として故人の男系が参列する。
「正月祀(ショウガチトウトゥ)(ショウガチニゲー)」は、昭和三十年代の新暦移行当初は新暦で行われたが、この行事が了わらないと、年始の行事が出来ないことから、次第に旧暦に戻って行われている。
「八月祀(パチガチトウトゥ)(パチガチニゲー)」は、依然として旧暦で行はれている。是の日取りにはいくつかある。八月一日に執り行われるのが原則であるが、他家に参加する家は後日にずらして行っている。また、旧暦が七月三十日までの年は、暦に従い翌日の一日に行う家と、「あまい(余り)」といって、その日を八月一日と見做して行う家がある。「あまい」とは、三十日は二十九日を基にして一日余分だからと云う事である。二十九日の時には「ちょんど(丁度)」と云って当然翌日の八月一日に行うのである。
この行事に参加する人は、「キレー」と云って幾日も前より身を清めて当日を迎える。古くは一月とされていたが、時代が降るに随って短縮され現在では、一週間ほどである。「身を清める」と云うのは、赤黒を避けるといって出産や葬儀に参加しないことを云う。行事を終えた後日に、その旨伝えて義理を果たす
全国的に簡素化される傾向の中にあって、今日なお日本古来の仏事の原形を伝えている。旧暦の七月十三日より十五日までがお盆の行事である。与論島では伝統の年中行事には旧暦を用いている。
ご先祖をお祀りしている家庭では、七月十三日に墓参りをして、「本日よりお盆に入りますので自宅でお饗しを させていただきます。」という旨述べる。
盆を迎える前に、本家へ赴き、酒、米、等をお供えして、ご先祖にお参りをする。
お供えの魚介類は各家でその日に獲たものを用いる。日ごろ漁に出る機会のない家でも、お盆になると必ず漁をしてお供えすることになっている。
礼拝の仕方は線香を三本立て、二礼二拍手一礼して、報恩に「ご先祖の御陰を被りこれだけのお供えをすることができました。どうぞお上がりください。」という旨申し述べて重ねて二礼二拍手一礼する。線香を三度立て替え一座とする。その間家族はその場を離れないでお酒を注いだりしてトゥイムチ(供養)をする。
一座が終わると家庭で料理して出した供物はその場で食する。先祖の見守る中で家族一同揃って食事を取り一体感を確かめるのである。そこで家長は先祖や一族等の話をして聞かせる。十三日、十四日、十五日とも同じように供養をして、十五日は三度目の線香が中程まできたたところで取り出して、花を添えて門まで行き「来年もまたウトゥイムチ(ご供養)をさせていただきます。」という旨述べて送る。
精霊棚は表座敷に南(庭)向きに設へる。新しい(清潔な)畳あるいは筵を1枚敷きその上に膳を組む。近ごろでは膳の替わりに大きな座卓を用いている。
お供物として、花(時花)、香(線香)、水(清水)、酒、米(洗米)、分家よりの供物、家庭で料理した百味(山盛りにしたご飯、幼逝した者への握り飯、野菜、果物、魚介類を煮たり炊いたり焼いたりした物)等をお供えする。初盆を迎える霊には別盛りにして供える。また畳(筵)の上座にサトウキビ、下座には直に、アダンの実を置く。サトウキビは、杖ともお供え物を担う棒とも云う。アダンの実は、子孫の絶えた霊など無縁の精霊への供養の為として置くと伝わる。また、アダンの実を供えるのは太古の人はアダンの実を常食としていたからとも伝える。サトウキビ、アダンは、十五日の「ウークイ(奉送)」のとき、庭に打ち捨てる。サトウキビは三つ折りにし、アダンは砕く。後で子供がこれらを口にすることは、厳に戒める。
シニュグは、旧暦の七月十六日から十九日まで執り行われる、一族の先祖を祭る行事である。明治初期、旧習を廃す、と云う政府からの諭達により、全国的に習俗が廃止されたり、改められたりした。与論島では、女性を中心にしたウンジャン祭りと、男性を中心として執り行われていたシニュグ祭は廃止された。その後に天候不順や災厄等が続き、その理由を祭り廃止の故だとしてにして復活を申し入れた。二十数年後に復活した時にはウンジャン祭を執り行える女性が居らず、シニュグ祭のみが復活した。十六日の「かみみち」作りから始まり、十七日の本祭り十八日と続き、十九日は午前中に後片付けをして夕刻に酒や肴を持ちより、三味線を弾き太鼓を叩き、夜を徹して歌い踊ったと云う。これがシニュグヲゥドイ(盆踊り)である。
エープジ(お盆)とシニュグは、元はエープジとしての「先祖を祭る」先祖供養として、七日間を通しての一連の行事であった。十三日十四日十五日の、前三日を直近の先祖供養に当て、各家ごとで供養して、十六日から十九日を一族の先祖を祭る日として、一族が集い子孫の繁栄を祈り供物を奉げ饗しそして歌舞で送った。この歌舞がシニュグヲゥドイである。シニュグの語はシヌグイ、シニュグイとも言われており、シヌグイヲゥドイ(仕納めの踊り)からきたものである。
元は一週間を通して、エープジと云われていたのが、一族を祭る十六日以降が廃止されたので、前半の直近の先祖を祭る日のみが、二十数年の間にエープジとして定着した。復活後はシニュグヲゥドイのヲゥドイを省き、十六日以降を指すようになった。と、考えられる。
シニュグ祭を行う場所をサークラ、ダークラと云い、二十五箇所を数え、城、麦屋、立長などに数が多く、次第に合流し、昨今では、参加する家も、年を追って減少していく傾向にある。分布や合流を見ると、与論島の人々の移動や一族の祖先を窺い知ることができる。
尚、シニュグヲゥドイを復活する際に、元に戻すことが出来なかったので、名を変え日を改め現今行われている、十五夜踊り(豊年祭)として継承されている。十五夜踊りをシニュグヲゥドイとも呼んでいた。
正月の松の内一週間を、現世の子孫の繁栄と幸福を願い、七月の中旬の一週間を、直近の先祖をはじめ遠い一族の祖先の、後生の安穏を祈りつつ、現世の子孫のユガプー(良い果報)等を願い祈ったのである。
与論島には「ウマリ ナナケー、シジ ナナケー」と云う言葉がある。生れて七回のヨイ(祝)死んで七回のトウトゥ(年回忌)の事である。生れて七回は、十三、二十五、三十七、四十九、六十一、七十三、八十五の年祝いを言う。死んで七回は三、七、十三、十七、二十三、二十七、三十三の各年回忌である。昨今は二十三と二十七を省き二十五回忌を勤め、一周忌を加えて七としている。
三十三回忌は、故人の個人としての人格から個を脱して祖霊の中に入りる、最も重要な行事である。それ故に島外に居る子孫や親戚が、一堂に会して盛大に執り行われる。そのため主家はもとより参列者並びにその家族は、キレー(正月祀りや八月祀り、さらに改葬のときも同様)を一ヶ月(期日は短縮傾向にある)前から行う。
設えは大凡還暦祝と同様であるが、ピムン(干物)の昆布を除く。「花」の作り方は、竹の代わりにガジュマルの枝を用い、大根人参の花形を四手に代へ、糸状の昆布の代わりに芭蕉の繊維を用いる。
供養の最後にウウクイ(御送り)と云って、昇天を祈り願うために太鼓や三味線に合わせて歌い踊りながらお送りする。その時にいつもの線香とパナ(ガジュマルに四手を付けた物)に「キヌ(白衣)」を頭に載せて手踊りしながら後についていく。このキヌをお供えするのは、昇天を願うために着てもらうのでので三十三回忌だけである。
「ムイカイ」にガジュマルを使うのは、本土でかつて行なわれていた、生木を立て塔婆としていたのに似ている。この忌を以って最終回とするのは、全国的に行われている「弔い上げ」と一にする。
海で亡くなった霊は竜宮に行くと信じられており、バシャグキブニ(芭蕉の葉の芯を三十センチほどに切り、柱を立て帆を張り小舟に見立てる。)それに、お供え物いくばくか添えて、胸ぐらいまで海に入った処で沖に流す。
三十三回忌を終えたら、その後のおお供えには、煮炊きした物は供えずに「アレーグシ、グシメー(洗米)を供える。
尚、巷間で言われている「三十三回忌はお祝いである」と云うのは、誤りである。アトゥダー(行事を終えた後の酒宴)で、最も重要な行事を無事に終えられたと云う事は、有難くある意味で祝うに値する、と考えまた言われている事を、ヨイ(祝儀)と誤解してのことである。
<そ の 他>
ショウリョウ・ショウロウ(精霊祭)
特定、特殊の祖霊を子孫が集い祭る。特定、特殊とは、例えば、島の役人で、納税の為に薩摩に出向き現地で病没した人。
執り行うのは、エープジ最終の日である、参加する家は、十五日の勤めを早々に終え、祭りを執り行う家に集う。祭祀する家では、母屋の上座の然るべき処に一畳ほどの広さに四隅は竹で幕を巡らし、出入り口を設ける。その中に、線香、花、茶湯、水を置き、精進料理を供える。
参加者一同の礼拝が済むと暫く会食しウウクイ(奉送)となる。ウウクイに際しては歌舞を行う。
祖霊の供養に精進料理を供える等、明らかに仏教色が見られるのは、薩摩の様式で執り行われているからであり、この祭りの特徴である。
増尾国恵著「与論島郷土史」には、正月十六日にも「シヨウロウ」祭の項がある。
ピガン(彼岸)
ピガンは、彼岸に酒や米を持参して、本家に赴き、先祖にお供えして戻る。決まった様式はない。
ハャジャー(鍛冶屋祭)
ハジャーは、正月の四日と二十四日、八月の四日と二十四日に鍛冶屋跡地で、火の神を、近隣の住人等が集い行われる。先祖を祭るトウトゥとは異なり、此処に上げるのは適切ではないのを承知で、祭事と云う事で一行入れることにした。
初盆を控えている家庭の、正月(新暦)、三月三日(旧暦)の迎え方は一般と異なる。
正月を迎えるに当たり、家庭で正月飾りを差控えるのは当然のことであるが、お墓には注連縄を飾る。お餅は自分のところでは用意せずに、親族のほうで持参してもらいお供えする。三月三日の蓬餅も正月同様に親族に用意してもらいお供えをする。かつては、三月三日には親族一同墓前に集まり故人を偲び共に食事をしていた。何時の頃からかしなくなった。その理由を古老は、風が強く砂が飛び交い食事ができなかったので、家に戻り家で供養したと云う。
私たちは日々、神鏡に向かって先祖が宿る「イペー」として、花を飾り、線香を立て、水や茶湯、ウブク(御佛供)を供えて拍手を打ち礼拝する。また、年中行事として懇ろにお盆を勤め、更に年回忌を行い、特に三十三回忌は盛大に執り行なう。
私たちにとってこの当然と思っている「トゥイムチ。(供養)」は、島外から見ると特異なものに映る。神鏡、拍手、玉ぐし等は神道の様式で、イペー(位牌)、線香、茶湯、ウブクなどは仏教の様式であり、お盆、年回忌等は仏教の行事である。この一見神仏混淆に見える与論島の習俗は、明治の動乱期の中で、先人達が培った智慧であり、神仏と真摯に向き合い、先祖を尊び敬う敬虔な心情の表れとも言える。
「シマヌウヤカミヤ、トゥイムチシーヤッサヌナユイ、シントウシハガダンチン、ブッキョウシハガダンチン、チケーティーチアラサダナ(与論島のご先祖は、供養するのが楽である。神道でも仏教でもいずれで供養しても障り一つださない)」とは、ある古老の神職の言である。