慶      事


<正   月>
正月を迎える準備として、大晦日に門松を立て七五三縄を飾る。七五三縄には、松、竹、木炭、蜜柑、昆布等から三品を結び吊るす。昼の食事は「みしじまい」(豚肉の入ったまぜご飯)である。門松や注連縄の飾り付けは午前中に済ませ、飾り付けが終って昼の食事を取る。元旦は、酒一対に三重杯と昆布干物を用意して、餅と豚肉の入った吸い物に刺身を添えたお膳を先祖にお供えする。来客には先ず三重杯と干物でご挨拶をし、お膳をさしあげる。正月とお盆には必ず、本家に挨拶に行く習わしである。新暦に移行したのは昭和三十年代である。移行当初はまだ生活の基盤が自給自足にあったので、農作物の収穫時期に合わず、ご馳走を準備するのに大変であったと聞く。行政の指導の下に青年団が積極的に活動したが、移行するにはある程度の年月を要した。現在でも「カミポウ」ということで、略ながら旧正月を行なっているところもある。本土では、一夜飾りと云って三十一日の飾りつけを避けるが、与論島では大晦日に門松を立てる。

<三月三日(旧暦)>
旧暦の三月三日には蓬餅(よもぎもち)をこしらえて、ご先祖にお供えをする。この日は一家揃って潮干狩りをする。初めて迎える女の子には笊(ざる)、男の子には魚籠(びく)をもたせて、将来の健康と富貴を祈り波打ち際で海水浴をさせ、浜辺に座をもうけ祝宴をひらく。かつては各家々によって浜辺の場所が決められていた。

<年 祝 い>
年祝いは、十二支の生れ年が巡って来る度に、十三、二十五、三十七、四十九、還暦、七十三、八十五と祝い、八十八(米寿)の祝いとなる。還暦までは、ご先祖にお膳をお供えし報告するぐらいの、身内や近い親戚だけで祝う簡素なものである。還暦からは親戚一同会して祝う。四十九は「くんとぅぐんじゅう」(こんど五十)といい四十九とはいわない習わしである。「始終苦」の語呂合わせからか、いつ頃から言われているかは不明である。また、二十五歳になる独身女性のお祝いは「ハマンタヨイ」と、称する。嫁入りの早かった時代の言葉である。「ハマンタ」とは、大きな鍋の蓋のことである。直径一寸程の縄をぐるぐる巻きながら山形になるようにつくる。それを被ってお祝いをする。二十五歳にもなって嫁に行かないのを恥じると云う事と云われている。言葉通りの事をしたのか定かではない。還暦よりあとは特殊な様式がある。「花」と称するものを拵える。それは、二三尺程の唐竹を用意して、葉をちぎりその小枝に、大根や人参を薄く切って花形に拵えた物を刺し、頂より細長く切った昆布を幾本も垂れ下ろす。あたかも、竹に白や赤の花の咲き乱れている風情である。それを高膳に立て飾る。その周りにムイカイ或いはムイカキと云い、山海の珍味を七品あるいは九品盛り合わせる。此れは列席者全員の分用意し帰宅の際に持ち帰ってもらう。酒、盛り塩に干物と昆布。 スーマシ(米粉を水で固めに溶いたもの)シチュギ・サーギとも云う。大皿にそれぞれ刺身、揚物、煮物を盛り付けたものを準備する。(シチュギとは祝儀の、サーギは白髪の与論語読み。)対の吸い物に刺身を加えた膳。これらの品々をご先祖に向けてお供えをする。お膳は全員分用意する。一同揃ってお参りした後に「サーギ」を戴く儀式がある。床の間を背にして一同に向かい、上座にお祝をされる人、次いで身内より還暦を終えた女性三人が座す。全員が順次上座に祝辞を述べると、次席の三人の女性がそれぞれ、酒、干物と昆布、スーマシを与える。近年では子供達にはお小遣いのポチ袋をわたしたりする。
米寿にはお供え物に、米を高膳に盛り上げ「トーカキ」を飾ったものを加え置く。古くはト−カキと共に一升枡をも並べ供えていた。トーカキは今日では木製であるが、古くは竹の筒で片方に節を残し一方を斜に切ったもので、穀物等を掬って枡に入れ、次いでに枡の面を平にした実用の道具である。トーカキを配るのは、枡の面を平にすることから、年祝いはこれで最後ということを意味していると伝っている。次に迎える九十七は十三祝いと称して祝う。この供え物は、本来の意味からすると八十五に当るが、米寿が一般的に行なわれるようになり、取って代わったものであろう。尚、女性の場合には、トーカキに替りヲゥーマキクダを供えたと伝わる。心情的には一升枡で量る米(穀物)が満ち溢れる程に、一族の富貴と長寿を祝い願っての事として受け取とりたい。トーカキには名前と日付けが記され各家に配られる。
今日では、八十五と八十八は年数が離れていないので、祝う当人の健康状態や家族の事情により、何れかを盛大に祝っている。
日取りは、還暦以降は「ウプヨイ」(大きなお祝い)と云って正月の二日に祝い、還暦までは、正月を迎え初めて当たる干支の日に祝う。米寿は旧暦の八月八日に祝う。昨今は新暦に行われることが多くなった。