お釈迦さまは、正しくは釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)と称し、敬意を持って釈迦牟尼世尊、略して釈尊ともよばれている。今から二千五百年ほど前にインドの地にお生まれになり、精神の解放を求めて座禅により悟りを得られた。
その悟りの内容は「世の中に存在するものに常住するものは無く、生じたものは必ず滅する。事物に実体は無く、全ては縁より起こっている」というものである。これはお釈迦さまが座禅をして「考えた」ものではない。お釈迦さまが、世にお出になろうと、なかろうと変わりはないのである。これを、普遍的真理という。この普遍的な真理を体得することを「悟り」という。お釈迦さまはそれ以後、生涯にわたり、自らの悟りに基づいた生き方としての「慈悲」の実践をお示しになった。
お釈迦さまのみ教えは、時代を経るに従って複雑多岐にわたり、また、さまざまな地域の特質を生かして展開されているが、共通の理念は、お釈迦さまの歩まれた「慈悲」の具現にほかならない。
お釈迦さまの生涯を通じて、特に大事な出来事を八つ取上げたものを「釈迦八相」という。経典によって異なりを見るが一般に、降兜卒天、託胎、生誕、出家、降魔、成道、転法輪、入涅槃を上げる。これに沿ってご生涯を見ていくことにする。
降 兜 率
(下天・住天)

兜率天(とそつてん)にいた釈尊の前世の善恵菩薩は、自分の後任に弥勒菩薩を決めて、下界に降り立つに相応しい場所として、カピラ城浄飯王の家に降りてくる。
釈尊誕生に関するお姿が「ジャータカ」(本生物語)として伝わっている。各国に広まり日本では「今昔物語」等の中に数多く残されている。
なお、弥勒菩薩は、人々から仏教がすっかり忘れ去られるであろう、はるか未来にこの世に現れて釈尊に代わり仏教をお説きになるという。その為に今は、兜率天で修行をしておられる。
入 胎
(託胎)

(摩耶夫人(釈尊の母上)が暁に四種の夢を見る。
その一つ、六牙の白象が虚空より降りてきて、右の脇より入る。その二つ、七宝を身に纏い空中に居る。その三つ、七宝の山に登り周りを見ると、遥かな先まで見渡すことができる。その四に、方々より人々が集まり皆一同鄭重な挨拶をして行く。
この夢により占い師から王子の誕生を告げられた。将来王位につくと、万人の誉れ高い王となり、出家すると最高の悟りを成すであろうと、予言される。
出 胎
(降誕・生誕)

摩耶夫人は十月ほどのある日に、母君の好まれていたルンビニ-園に憩いに出かけ、無憂樹の東に向いた枝を手折らんとして、右手を差し伸べた折に、脇のしたより王子を誕生する。紀元前五百六十年頃。
この時大地は振動し、天空は光り輝く。樹々は花咲き乱れあめ降る如し。四月八日の暁のころ。紀元前六世紀(五百六十年ころ)、インド―現在のネパールの南部―ルンビニー園でのことである。
やがて、人の手をかりずに立ち上がり、四方に七歩づつ歩む。東方に向かい、我は一切衆生の最上なり。南方に向かい、我は衆生の供養するところなり。西方に向かい、我今決定して後生をうけず。北方に向かい、我今すでに生死の大海を出る。と言へり。(七歩あるいて「天上天下唯我独尊」で知られるところである)
摩耶夫人は七日の後にこの世での命を終へ三十三天に生まれ変わった。
(経典によっては、出胎の前に住胎を設けて、安らかな禅定に入ったような状態で胎内より説法などをすることをあげる。)
出 家

王子としての生活を享受しながらも、青年期に思索にふける。「この世に生を受けた物は、何物も老いていき、病にかかり、必ずやがては死んでいく。これに対する恐れや悩みを超える手だてはないものか」
ある夜中に、愛馬カンタカを馭者チャンダカに引かせて北門より抜け出し、真直ぐ東方に向かって進み、明け方にマイネ-ヤに着く。そこで自ら持っていた刀で髪を切る。
チャンダカは、髪と身に着けていた宝石や着物を持ち帰り、王様に「自分に私的な欲望はなく、生死輪廻の苦から、全ての人々を救済するために、出家をするのである。そのために悟りを得るまでは、決して帰らない」という王子の伝言をする。そして、王子の生活までをも捨てゝ求めるものは、この上もなくすばらしいものにちがいない、と自分も後を追って出家した。王子二十九歳の時である。
(修 行)

降 魔 成 道

ガヤー山に辿り着き自分流の修行に入られる。断食をしながら、座禅をして呼吸を制御し停止し死の直前まで身をおいた。この苦行により身体は痩せこけて骨と皮だけになった。しかし苦行によっては根本的な解決にはならないと知り、山を下りてウルヴィルヴァー村の近くナイランジャナー川の畔で沐浴によって身を清め、村娘スジャーターの差出す乳粥の供養により、身体的な衰えを癒し、ピッパラ樹の下で座禅を修する。「この座において、肉体はひからび滅んでもよい。無上の悟りを得るまでは、決してこの座を動かない」と誓って、心の種々相の一つ一つを明らかにしていき、七日目の暁に「正等覚」(悟り)を成じられた。これによって「仏陀」(悟れる人)と成られたのである。それ以来ピッパラ樹は菩提樹と呼ばれるようになる。十二月八日、明星の輝く暁のころである。御年三十五。その時のお悟りの内容とは「中道・八正道」(肉体の苦行や快楽といった極端な行為を超えた、精神的な実践徳目―見解・決意・言葉・行為・生活・努力・思念・禅定―の正しい行い)と「四諦」(苦―苦悩、集―苦悩の源、滅―苦悩の克服、道―苦悩の克服に至る方法)と云われている。
それから、七日毎に場所を変えながら座禅を修し、四十九日の間悟りの法味を味わっておられた。
転 法 輪
(初転法輪)

悟られた当初は、独でじっくりと繰返し繰返し悟りの境地を味わゝれた。そして「我が悟りの法は甚だ深く、微妙にして智者のみぞ知り得る。理解しがたい世間の人々に説いても徒労にすぎない」と法を説くことに躊躇する。
それを危惧した梵天が「世間には塵垢少なくして、理解のできる者もいる。その者達は法を聞くと必ずや悟りを得られるであろう」と法を説くことを勧める。
そこで先ず最初に、修行時代の恩師達にと思いたつも、ア-ラ-ダ師は一週間前に、ウドラカ師は前日お亡くなりになっていた。そこでかつての修行仲間五人に初めて法を説くことにして、バラナシの郊外ムリガダーヴァ(鹿野苑)に向かわれた。
五人の修行仲間は、遠くの方からお釈迦さまがおいでになるのを知り「向こうから来るのは修行を放棄した者だ、挨拶はしないでおこう、しかし好きなようにはさせておこう」と申し合わせた。ところが、お釈迦さまが間近になると座を立ちて、偉大さに打たれて礼拝し、座具を用意したり、み足を洗ったりして迎えた。しかし、説法なさるお釈迦さまを最初のころは信じることはできなかった。が、その偉大さに接しているうちにやがて聞くことになる。
お釈迦さまは、八十年の生涯を終えられるまでの四十五年間、自ら悟った真理に基づく生き方を、聞く人の理解する能力に応じてわかり易く説いて各地を巡られた。それは正しく「慈悲」の実践行であっつた。
弟子達には、修行者としての心得に「中道」を説き、必要以上の苦行や快楽を諌める。また、慕ってくる信者には、仏の教えは何かと問われ「悪をなすことなかれ。つとめて善にはげめよ」と説かれる。これは今日まで仏教徒としての日常生活の規範となっている。
入 涅 槃

自らの終焉の近いのを知った釈尊は、生まれ故郷カピラヴァストゥを目指した。かつて出家したときに通った道を逆に辿ったのである。
諸所で説法をしながらクシナガラに到り、沙羅の林の樹の下で上衣を四つ折りにさせて、横になられた。
取り囲む弟子たちに向かって最後の法をとかれる。「嘆き悲しむのはやめよ。日ごろ言うように、愛おしい者親しい者とも別れの時がある。生じた物は必ず滅するのである」「自分自身を拠り所に、真理を道しるべとして、生きていきなさい。真理の為に怠らず励みなさい。」「葬儀のことには関わり合うな、葬儀は在俗の篤信者が執り行ってくれるだろう。」等々言い残し、頭を北にして西に向かい、灯火の消ゆる如く長い眠りにつかれた。悟った者は静かに見守り、修行半ばの者は取り乱したと云う。その時大地は震動し、沙羅の樹々は時ならぬ花を咲かせあめふらし釈尊の入滅を惜しんだ。御年八十.紀元前四百八十年頃のことである。
御遺骨は八分され、各地に塔を建て釈尊を讃え遺徳を偲び、修行の指標とした。
我が国では、お生まれになった日を四月八日(降誕会⦅ごうたんえ⦆)、お悟りを開かれた日を十二月八日(成道会⦅じょうどうえ⦆)、そして、お亡くなりになった日を二月十五日(涅槃⦅ねはんえ⦆)とし、重要な三大行事として法要が執り行われている。寺院によって新暦で行う所と、旧暦の所がある。
スリランカなどのテーラワーダ仏教圏では、降誕、出家、成道、涅槃いずれも、年の始めの月の満月の日とする。経典により異なりを見る。
の う ま く さ ん ま ん だ ぼ だ な ん ば く
南 無 釈 迦 牟 尼 仏