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 金剛界大日如来              胎蔵法大日如来

  
真言宗は、真言密教とも称し、単に密教といっても真言宗を指す場合が多い。大乗仏教の発展の最終的段階にあったインド密教が、中国に伝えられ、さらに弘法大師空海によって、我が国に移入せられて展開されたものでる。インド、中国、日本と三国伝来の教えである。
弘法大師の思想がそのまゝ真言密教の教義となっており、解釈にいくらかの相違を生じながらも、現在まで千二百年ほど連綿と変えられる事なく伝えられている。
弘法大師は『即身成仏義』と云う書物の中で「一切の仏法は即身成仏の一句を出でず」と真言宗の根本的立場を表明して、それまで理論の域を出なかった根本仏(法身大日如来)を生命ある仏格へと展開した。

真言密教の世界では、一切の仏および一切の衆生は悉く六大(地・水・火・風・空・識)より造られていて、仏の三密(身と語と心)と衆生の三密(身と語と心)とが加持感応することによって大悉地(成仏)を得ることができる。と説いている。それまでの仏教では、とほうもない時間を経て修行しなければ、成仏はできないとされていたものを、弘法大師に至って、仏はいつでもどこでも常に真理を説いており、人々は、身と言葉と心とを正しく保つことによって、真理を聴くことができ、既に仏の世界に住していると云うことを明らかにした。

私たちは、思想や性格、生き方等によって、心の安らぎを得る処が異なる。その心の安らぐ処を住心(じゅうしん)と言う。そこで、総ての人々の住心を十の段階に別け、一段上がることによって、より大きな安らぎを得て第十段階になって、大生命体である宇宙と、小宇宙とも言われる自身が一体であると自覚され、大安心を得る。この境地を即身成仏と云う。
善悪の観念もなく、只、淫食(いんじき)を貪るような心を、第一住心とする。第二住心になると、少しく善の心に芽生え因果の道理を知り、道徳心に目覚める。さらに、人間の微力を思い、天を仰ぎ人間以外のものに救いを求める心が起こる段階に至るを、第三住心とする。第四住心になると、他人の話を聞き入れて世の中の道理を、理解することができるようになる。さらに上がって、第五住心は、世の中は,因と縁で成り立っていることを理解して、妄りに心を乱されない。第六住心になると、あらゆるものは心から起こるとして、慈悲の心を起こす。第七住心は、全ての存在は生滅を繰り返し実体はない。第八住心、実体のないそのものが真理である。そして、第九住心は、世の中に現れる全てのものは、大いなる命の表れであり融通無碍である。と、漸次段階を経て第十住心に至る。この第十住心を秘密荘厳住心(ひみつしょうごんじゅうしん)といい、そこは、自分自身の心をありのままに捉えた世界であり、大生命体と一体となっている世界である。この住心は、第八住心が論理にとどまっていたのに対して、観法によって、体得された境地と言える。真言密教では、悉くすべてのものは、仏となる可能性が本来備わっているとみるから、十住心は各々の住心の中に余の全ての住心をも蔵していることになる。

弘法大師は、真理そのものゝ生命を観法修し観得して、私たちをそこに導き入れる方法を説いた。その真理とは論理をもっては窺い知ることの出来ない、論理を越えた世界である。そこはしかし、一般に言う所の次元を異にする世界のことではない。現在私たちが住んでいるこの世界である。この世界がそのまんま仏の世界である。そのように自覚することこそが、真言密教を生きることゝなる。そこで密教では、言語だけでは言い表わし得ない深秘な教えを、比喩を駆使したり画像を用いたり等、五感を通して表現しているのである。書物に依って理解しようとすると独断を免れず、古来より、必ず師に随って学ばなければならないとされている所以である。誤解を恐れんがためである。

真言密教で説く真理とは、目に見えるもの見えないものをも含め、存在する全てのものがそこから生れそこに還る、大いなる生命体である。強いて例えるならば、水を湛えた池に壺などの様々な器を沈めると、すべての器の中の水は、池の水であるとともに、しかも、それぞれの器の中の水でもある。器が壊れてなくなったら池の水となる。また、新たに器が造られたときのその中の水も、池の水に変わりはない。
このように、個々の生滅によって大生命体に変化はないのである。しかも、個々は大生命体に蔵されてはいるが夫々に独立している。大生命体を宇宙と云うならば、個々は小宇宙と称される所以である。真言密教では、この大生命体を大日如来と名付けている。
個々は縁によって起こり、一瞬たりとも留まっていることなく、生滅を繰り返している。これは、釈尊によって悟られた永遠の真理である。ここに云う水とは、「いのち」「霊性」のことであり、器は目に見えて存在する私達の肉体をはじめ物質全般を指す。

真言密教は、両部の曼荼羅を説く。即ち胎蔵法曼荼羅と金剛界曼荼羅である。「いのち」の存在そのものを胎蔵法曼荼と云い、「智恵」を通して覚った「いのち」の存在が金剛界曼荼羅となる。つまり、この二つの曼荼羅は、「二つでない、一つでない」関係にある。
この、「いのち」の世界[曼荼羅]を図絵にしたものをも、同じく曼荼羅と呼んでいる。文字と持ち物と尊形を図画したものと、木像や鋳造塑像などで表したものである。この、文字で表したものを「法曼荼羅」持ち物で表現したものを「三昧耶曼荼羅」尊形で描かれたものを「大曼荼羅」といい、さらに木像や鋳造塑像で表したものを「羯磨曼荼羅」という。一般には、図絵した両部の曼荼羅を両界曼荼羅と言い、胎蔵界曼荼羅、金剛界曼荼羅と言い習わしている。

真言密教の真髄は、私たち一人ひとりが、「我即大日」(仏の世界に在ること)を自覚し―胎蔵界曼荼羅の世界―「即身成仏」(仏の智恵)を観得すること―金剛界曼荼羅の世界―にある。それは現実社会に於いては慈悲を展開することであるといえよう。そのためには、折にふれ、仏の姿を思い、実のある言葉を使い、仏のみ心を汲み取ることができるような、そんな生き方をすることである。具体的には仏教に共通の「十善戒」を実践し、さらに真言密教徒の生活指標である「三聚浄戒」を保ち励むことに尽きる。三聚浄戒とは、一に自らを律し、二に努めて善を行い、三に生きとし生けるものを利することを云う。

上図の右側は、胎蔵法曼荼羅の中央で中台八葉院と云われている部分の中心に座す大日如来である。左側は、金剛界曼荼羅の一印会の大日如来である。画像は金剛峰寺蔵。