与論島の習俗(ユンヌぬカミポウ)
このページは、平成二十年八月六日に行ったツアーガイド人材育成講座の講演を纏め、それを元に加筆したものです。


 今晩は、市来快延と申します。お仕事を終わりお疲れのところ、お越し戴きありがとうございます。与論島の習俗(ユンヌぬカミポウ)という題で、お話をさせていただきますが、その前に一言、自己紹介をいたします。昭和二十三年茶花に生まれまして、与論中学校を卒業しております。当時、高校がなかったものですから、東京で高校を出まして、京都に行き、真言宗の大学を出ております。五年ほど前に与論に戻って参りましたが、ここに来るまでの七年ほどは札幌に居りまして、それ以前の三十年近くは京都に居りました。
 子どもの頃、与論島の宗教は神道である、と、聞いておりまして、また、中学校在籍当時調書みたいなものがありまして、それに、そのように書いた記憶があります。大学を出て時折与論に帰った時に、与論島の習俗に触れ、確かに、与論島には寺はないが、お盆や三十三回忌と云った仏事が行なわれており、葬送儀礼においても、神職が司っているにもかかわらず、諸作法のほとんどが仏教様式で行なわれているのに驚きました。そこで、この度島に落ち着いたのを機会に、たくさんの方々にお話をお伺いし、著作などをも参考にしながら、纏めたものをお話いたします。

 「ユンヌぬカミポウ」を見ていく上で、一番重要になるのが、明治初期の政府による神仏分離令を機に起こった「廃仏毀釈」という社会現象であります。この事を説明する前に、中学や高校の歴史の授業みたいになりますが、「日本社会の神と仏のかかわり」を簡単にお話します。

日本社会の神と仏のかかわり

仏教伝来以前
仏教伝来以前の、日本社会の精神生活の根底にあったものは、自然崇拝や精霊崇拝であります。つまり、人力を超えた物、自然に対しての畏敬の念から山や川、海、大きな岩などを、神として崇め奉っていました。また、種から成長し実を結びやがて枯れていく稲などの作物に対して、人間を生かしてくれる感謝の念も相まって、精霊が宿るとして、崇めていたのであります。

仏教伝来
538年12月に時の帝、欽明(きんめい)天皇に百済の聖明(せいめい)王より仏像や仏書が送られてきます。(欽明7年「元興寺縁起」「上宮聖徳法王帝説」仏教公伝。一説には552年欽明1310月「日本書紀」当時の年代を西暦に当てるのはむつかしい)
もちろん、私的にはそれ以前より往来はあり、仏像や経典ももたらされておりました。
仏像や経典を献上された欽明天皇はその対応に困り、群臣に諮ったのです。その中で、大臣の曽我稲目は、近隣諸国が皆受けいれ敬っているのだから、拒む理由はないとした。この一派を崇仏派と云います。大連の物部尾輿や連の中臣鎌子は蕃神(となりのくにのかみ)を拝むと国神(くにつかみ)の怒りをかうと拒否しました。これを排仏派と呼んでいます。そこで、天皇はとりあえず曽我稲目に金人(仏像)を預けることにしました。そこで、稲目は歓んで持ち帰り自宅で安置し、その後寺を建てて祀ったのです。向原寺(むくはらでら)現在の広厳寺です。暫くすると疫病が流行します。すると、稲目が蕃神を祀ったのが原因だと云うことになり、排仏派によって寺は焼き払われ、仏像は「難波の堀江」に流し棄てられました。それから暫くするとまた再び疫病が流行します。今度は、寺を焼き仏像を粗末にしたからだと云う事になったのです。今回は崇仏派が勢いを得ます。このように、権力闘争の具にされながらも、仏像や経典の移入は時を経るに随って多くなってきます。
5874月「朕、三宝に帰(よ)らむと思う」と用明天皇は仏教を信受する詔を出します。ここに、天皇の帰仏によって、仏教は定着することになるのです。
さらに、60404月に聖徳太子は「十七条憲法」を表しー「一に曰く、和を以って貴しとなす(略)二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは、仏法僧なり。云々」と言うあの有名な文です。ーここにわが国では、仏教思想の上に国家を建設する方向付けがなされたわけでありす。
時を同じくして各豪族が競って寺を立てることになります。氏寺と云われるものです。たくさんありますが例えば、法興寺(曽我氏)広隆寺(秦氏)興福寺(藤原氏)などです。  

神仏習合
天武天皇(673686)の律令制による国家体制の樹立により、仏教はその政治組織の中に組み入れられました。官寺の建立であります。大安寺をはじめとする後の南都七大寺と呼ばれるもの等です。そこで、寺院および僧侶・僧尼に対する保護優遇並びに統制がなされていくことになります。仏教の重要な任務として、自然災害の除災や五穀豊穣などの、国家規模の祈願があり、以降「国家仏教」として「鎮護国家」の修法が、重要な事となっていくことになります。そこに国家は、事ある毎に神社や寺院に祈願をさせ、神仏は対等同格として、取り扱うようになります。
一方、古来からの山岳修行者に混じり、山中に入り修行する私度僧(国から資格を得ていない修行僧)も、仏教の定着とともに増加してきます。それらの僧は修行するに先立ち、その土地の神に祈願し、山々の精霊を祀り修行をします。ここに、神々の威光を被り、修行によって体得した仏力により、こんどは神々や精霊を供養しすることになります。すると、神々や精霊たちは、益々威光耀き農耕生活の安泰をもたらし、自然災害を鎮めることがでるようになるわけです。この神や精霊を祀るために建てられたのが、神宮寺であります。ここに神前で読経するということが出てきます。この神宮寺は奈良時代から江戸時代まで建立され続け、特に十世紀以降は本地垂迹説の影響で増加します。数多くありますが特に馴染みなのが、宇佐八幡神宮寺725年(大分県)、伊勢大神宮寺766年頃(三重県)日吉神宮寺785年(滋賀県)、三輪神宮寺788年以前(奈良県)高雄神護寺782805年(京都府)、加茂神宮寺824833年(京都府)、熱田神宮寺847年以前(愛知県)、石清水八幡神宮寺859876年(京都府)などです。
ここに、国家体制の上からも、一般民衆の実生活の面からも、神仏習合が行なわれるに至り、神像彫刻の出現なども見られるようになります。
東大寺建立743年(天平15年)にあたり、聖武天皇は詔を出し宇佐八幡宮と伊勢神宮に祈願をさせております。
この、神仏習合の中で出てきたのが「本地垂迹説」であります。日本の神は仏が仮に現れた姿である。とする思想で、八幡神に仏教の称号の一つである菩薩号を与え八幡大菩薩と称したりしました。

中世
時代が下り中世になり、元寇の役(文永12年1274年、弘安4年1281年)当たりから神国思想が出現します。ここに「逆(反)本地垂迹」の考えが出てきます。本地垂迹説が仏教の側から出たのに対し、「神が本で仏は神が仮に現れたものである」とする、神道側に立った説ですが、これは思想的な広がりはありませんでした。「神風」という言葉が生まれたのは、この元寇の役のときです。余談ですが、今次大戦の「神風特攻隊」という言葉はここに由来しています。この時亀山上皇は、神社寺院諸宗に異国降伏を祈願させています(1274年11月)
この頃に生まれた神道には、伊勢神道(外宮祠官、度会行忠12361305年これは当初、内宮より外宮を上位におくために立てられた説である。両部神道説)吉田神道(吉田兼倶1435~1511年唯一神道とも云われ天台から神道に回心した慈遍、良遍によって打ち出され、兼倶によって大成された。背景に天台本覚思想がある)他に北畠親房(12931354年)が南北朝(1338年頃)時代に「神皇正統記」を著わし「大日本は神国なり」と鼓吹する。

江戸時代
江戸時代になり幕府は、朱子学を以って封建体制の理論的な裏付けとします。そして寺檀制度を設けて寺院を幕藩体制の中に組み入れ、特権を与え優遇しながら統制していきます。寛永12年(1635)に寺社奉行を設置し、庶民の寺請を全国で行なわしめます。「寺請証文」を出すことであります。この寺請証文は身分証明書で寺院が発行し、縁組、旅行、移転などの際の証明となものです。寛永17年(1640)には宗門改め役を置き「宗門人別帳」を作成します。宗門人別帳は戸籍簿であります。檀那寺、戸主以下家族の名前、年齢、妻の実家、嫁入りの年月日などを記し、戸主の判を押し、檀那寺、庄屋、五人組頭をへて宗門改め役に提出します。寛文11年(1671)になると、宗門人別帳の記載を全国的に統一します。この、宗門人別帳・寺請制度は、明治4年(1871)の戸籍法が制定されるまで、続けられていくことになります。ちなみに、役場で明治4年以前の戸籍が、不明と云われるのはここに起因するのです。全国的なことであります。
江戸期を通じ仏教は幕府の庇護の下にあったので、充分な宗教活動が展開されたとは言えません。「宗論はどちらが負けても釈迦の恥」と狂歌で云われるように、一部を除いて、自らの宗学の研鑽に力が注がれただけでありました。
神道は、初期は儒教と習合し、儒家神道(林羅山)、吉川神道(吉川惟足)、そして中期には、度会神道(伊勢神宮外宮権禰宜 度会延佳)、垂下神道(山崎闇斎ー妙心寺の僧より転づ)さらに、後期には国学の台頭により、神道国学習合(賀茂真淵、本居宣長)さらに、宣長の没後の門人である、平田篤胤によって、天皇崇拝の絶対化
を掲げる、復古神道が展開されます。平田門下には下級武士、神職、地主、在郷商人などが多くいました。神道には、神社を中心にした神社神道、神の御教えを説く教派神道、仏教各派(例えば真言宗の慈雲による雲伝神道、天台宗の天海による一実神道など)それぞれの立場からとらえている神道があります。

明治維新
維新の新政府は中央集権国家体制を樹立するために、平田篤胤の説く復古神道の持つ、思想上の復古主義と尊王主義が、新政府の目指す政治目的と一致したので、復古神道の学説に皇室神道の儀礼を取り入れて、「国家神道」をつくり上げます。そこで、政府は明治元年(18683月28日に神仏分離令を布達することになります。これまでの神仏の関係は、神宮寺を中心に、神社や寺院などで、日本古来からの神と渡来の神が共に祀られておりました。この日本古来の神と外来の神(仏教の神)を分けるのが目的でありましたが、これを機に一部の熱狂的な人々によって、廃仏毀釈運動が起きます。そのときに、それを阻止しようとする人々との間に、全国各地で流血の騒ぎが起きます。政府はついに、明治4年(1871)3月8日に神仏判然は廃仏にあらず、廃棄合併は慎重にすべきと云う旨の、通達を出さざるを得なくなります。
「廃仏毀釈」は、徳川政権二百五十有余年の間、社会的地位と身分において、権力者側の地位にあって、優遇されていた仏教教団に対しての、特定の立場にあった人々と、新政樹立のための旧習打破を目論む側からの、仏教排斥運動であります。「排仏棄釈」「排仏毀釈」等と研究者によって言葉に違いがあるのは、その時の社会状況を見る立場の違いからでありす。
明治初期から昭和20年(1945815日の敗戦の日までの80年ほど、天皇を頂点にした国家神道体制の下に国策が行われます。この僅か80年ほどの間に国民は大きな戦争をいくつも体験することになったのです。昭和20年(1945)11月15日にG・H・Qによって、国家神道に対する政府の保障支援保全監督および弘布廃止の覚書が発令されます。所謂、神道指令と云われているものです。それに、昭和21年1月1日の詔勅による「天皇の人間宣言」によって、「国家神道」は解体されます。そこで神社は昭和21年(1446)2月3日に神社本庁を設立し、昭和26年(1951)4月3日の宗教法人法公布によって、仏教やキリスト教その他の宗教と等しく、宗教法人法のもとで活動していくことになるのであります。

与論島の仏教事情

与論島の習俗(カミポウ)に、仏教がどのように関わてきたかを、見ていきます。

アガリデラ(東寺)の建立
アガリデラ(東寺)に関しての資料は皆無等しく、鹿児島大百科事典(南日本新聞社刊1981年)付録の鹿児島県主要廃寺一覧に与論町東寺と載っているぐらいです。ほとんど全てが言伝えであります。しかし、与論島の習俗や諺、民謡等を通じて、往時の住職の方々の学識の高さや人徳の深さを、窺い知ることができます。
古文書ではありませんが「当家初代、前兼久は真三郎与論主の大膳役(司書)と琉球城内円覚寺の分派で東寺と称し、現在の与論中学校の西側菅原池の辺りにお寺を建て、初代僧侶を兼ねた。」と高井家に伝わっております。
与論主については、与論町誌には一説にはとしながらも、1512年(永正9年)尚真王次男尚朝栄(大里王子)すなわち花城真三郎が、21歳の時に与論世之主又吉按司として来島して云々とあります。また、年表には、1525年(大永5年)花城(旧又吉家)与論主となる、と記しています。しかし、沖縄の資料によると、尚真王には一女七男あり、次男尚朝栄(大里王子)は早世し後なしとみえております。今後の研究が待たれるところです。

アガリデラ(東寺)以外の寺院
アガリデラ(東寺)建立以前に、城字ゴシカに寺院が在ったという伝えがあります。これは伝えがあるというだけで、他は全く不明です。
「在与中日記」(坦晋、1858ー安政5ー年2月3日)に、「今日御代官様観音幷弁天堂御参詣成候処云々」とあり、アガリデラ以外にも寺院の存在が分かります。場所は記されていませんが、言い伝えでは石仁の北側にあったようです。薩摩藩によって建てられた、手札改めの為の寺です。江戸時代には、寺院が戸籍などの管理をしておりました。子供が生まれたら寺に届け出て、亡くなると寺で葬儀をする。移転や旅行などは寺から証文(今で云うパスポートです)を出してもらう。何年かに一度この戸籍調査をするわけです。これを寺で行うものですから、奄美には寺がなかったので、薩摩藩で建てております。弁天堂とか観音堂が各島に建っていたのはこのことです。後で少し詳しく述べます。明治の初めに、戸籍の掌握を、寺院から神社に移そうとしましたが、程なく役所で行うようになりました。その時に建てられたのが高千穂神社です。奄美全土で十三社建立されております。

現存する仏像

古い仏像が現存しております。
宝永6年(1709)の年号の分かる合掌仏を刻んだ石碑です。48日とあるので、釈迦牟尼仏(お釈迦様)であります。4月8日はお釈迦様の、誕生日だからであります。上部は四方が打ち砕かれており、廃仏毀釈の嵐を掻い潜って来たことを物語るものです。山川の地で像立された旨の字が見えますので、宝永当時は(17041711)上国に際しては、山川の地を使っていたと云われますので、宝永年間に薩摩に上国した安嶺大水与人、喜久里大水与人何れかが関わっているでありましょう。

この仏さまは、300年以上も前から与論島の歴史をどのように見ておられるのでしょうか。

旧家の戒名
町誌に掲載の旧家の系図の中に、戒名を授けられた方が幾人かおられる。基家、東家とも同一人物である。
琉球首里埼山吉祥庵達全長老より、寛文11年(1671)戒名を授けられたのを始めとして、元禄6年(1693)、元禄16年(1703)同じく吉祥庵の幸全長老より授けられております。伝わっている東寺建立の時期より150年ほど後からであります。次に寺院名不詳で宝永2年(1705)そして享保3年(1718)には沖永良部島の禅王寺祖道和尚より授かっています。これ以降は、鹿児島の寺院より授かっています。妙園寺より享保8年(1723)、福昌寺より寛保元年(1741)、同じく福昌寺より延享2年(1745)。福昌寺は島津家七代元久公によって、応永元年(1396)に創建された曹洞宗の寺院であり、島津家の菩提寺になっていた寺院です。宝永2年の寺院名不詳と、それ以降の戒名には全てに「ーート改」とあるのが気にかかるところであります。アガリデラ(東寺)で戒名を授けていたのかどうか。

宗門改め 手札改 
奄美大島では、観音寺によって行われております。観音寺は1675年(延宝3)名瀬大熊に建立されました。その後1819年(文政2)赤木名に移転し、さらに名瀬伊津部に移されています。赤木名から再度名瀬に移転の折に、観音様はまだ来ない云々と云う歌がありますように、本尊は伴われていなかったようです。この事情よりして観音寺は、寺院としての存在よりも、寺檀制度を維持するための役所としての役割のほうが大きかったと思われます。
徳之島は藩命により安住寺が1736年(元文元春)建立され「戸籍に関する手札等には禅宗と登載せられ云々」(徳之島事情76頁)とありますので安住寺が行なっていたことになります。安住寺は明治5年廃寺になっています
沖永良部島では、禅王寺ではなく後年建立の弁財天宮で行なわれております。この弁財天宮は1704年(宝永元)に建立されております。沖永良部島代官系図を見る限りでは、1772年(明和9)初めて手札改が行なわれています。1800年(寛政12)以降に与論島のが併記されております。1831年(天保2)からは、弁財天宮の後ろの浜が使われております。1845年(弘化2)より兼久原とあります。1870年(明治3)には役所で行なわれております。
与論島の場合も、上記の観音幷弁天堂が建立されておりますので、記録では確認できませんが手札改め等はそこで行はれていたと思はれます。アガリデラ(東寺)や沖永良部島の禅王寺は琉球系の寺院ですので、政治的な面での関わりは無かったようです。

アガリデラ(東寺)の廃寺前夜
東寺の廃寺についてお話をする前に、薩摩藩の廃仏毀釈の事情を少し見てまいります。
廃仏毀釈運動の最も激しかった地域の一つに挙げられるのが、薩摩藩であります。その他に挙げますと、松本藩、富山藩、苗木藩、津和野藩、伊勢の神領、隠岐、佐渡などです。
すでに、十一代藩主斉彬(在任18511858)の頃に思想上の理由や、経済上の面から、廃寺や僧侶の還俗を考えていた動きがありまして、しかし、それは、斉彬の死によって実現しなかったのです。思想上の理由というのは、平田篤胤の門下生が多かったと云うことです。経済の上からは、藩財政のなかで、寺院や僧侶に対する経済的な負担が大きすぎたことです。
その後、慶応元年(1885)家老桂久武への建言により、島津忠義(十二代在任18581871、久光の長男)と久光(斉彬の弟)に上申し同意を得まして、明治政府から「神仏分離令」が出されるやいなや、直ちに廃仏毀釈が行われました。その時に寺院1616ヶ寺が廃寺となり、僧侶2966人が還俗させられ、その内三分の一ほどが兵士となっております。没収された寺領4209石となっております。
その他いろんな情報が「明治維新神仏分離資料」
に載っています。興味のある方はご覧ください。薩摩藩では、明治元年と2年にはほぼ終わっています。これから、奄美諸島などに移るわけです。

アガリデラ(東寺)の廃寺
明治4年(1871)シニュグやウンジャンを廃止する。また、各地にあったウガンを廃止して、城跡に合祀し、地主(とこぬし)神社とした。今毘羅神社から琴平神社に神社名が変更された。この時に祭神の金比羅大権現は大国主命に変えられたと思われます。
金毘羅大権現
は、東家六代目の喜久里与人が文化10年(1813)に上国の際に、海上安穏の守護神として、また、菅原神社の神を学問の神として勧請して自宅に祀っていたとの伝えがあります(与論島郷土誌)。また、町誌では、文政7年(1824)代官鎌田新之丞により、海上安全・民福繁栄のために、辺口巌石上に小祠を建立して祀り、後に上城に移転したとあります。
この、金毘羅大権現は、仏教の神様であり元々はインドのガンジス川のワニを神格化して、水を司る神様としたものであります。日本に入ってきてからは、海や川の守護神として祀られ、海上安全・漁獲大漁・五穀豊穣・治水安全などを祈願しております。
金比羅権現は、明治政府の神道政策による、神仏判然令によって、本来は仏教の神様であるからとして、日本古来の神で海に関わるところの、大国主之命に変えられたものです。全国的なことであります。それに伴い神社名も金毘羅神社から金刀比羅神社や金刀比羅宮に変更したところが多い。余談ですが、
琴平神社の鳥居の扁額は昭和三十年代は金毘羅神社であったような気がするのですがどうでしょうか。
明治6年(1873)沖永良部から、在藩所伊東仙太夫の命を受けて、鎌田常助氏が神官として来島し、その指揮の下で廃仏毀釈が行なわれます。その時の様子は、増尾国恵氏や川村俊英氏などの著作に、詳しく述べられておりますので、関心のある人はそれらをご覧になってください。
その時に役人は、島民のイペー(位牌)を集めて焼き払い「以後、之を位牌とせよ」と鏡を渡した。古老の書にはそうなっておりますが、実際に「鏡」だったのかは疑問です。と申しますのは当時の状況を考えますと、与論島だけのことではありませんから。奄美各島はもとより、薩摩藩全土に関わるものですから。準備できたかどうか。ともあれ、私たちのご先祖は、渡された鏡を持ち帰り、位牌のあったところに安置して「チュウテイサマヌ、メーチキデービュークトゥ」ーお上(朝廷様)の、仰せでございますからーと、それに向かって手を合わせ位牌と心得て祀った。今日、鏡を「イペー」と称しているのはここに始まるんです。琉球様式の位牌の上部中ほどを円く彫って、鏡の如くにしてイペーとしてお祀りしている旧家があります。
「チュウテイサマヌ、メーチキデービュークトゥ」という言葉は、今では、
自分の都合の良いように「カミポウ」を変更する時などに用いられております。それには幾分軽い気持ちも含まれております。しかし、この言葉を作り使われた当初は、ご先祖に対する、畏敬畏怖の念からでありましょう。当時廃寺に携った役人はじめ、関わった人たちの行末を見聞するにつけ、言葉では表現のしようもない、感情の吐露としての、言葉だったのでありす。

アガリデラ(東寺)の廃寺以降
アガリデラ(東寺)が廃寺になりそれ以降に、葬送儀礼がどのように執り行われたかと申しますと、「沖永良部島諸事改正令達要録」の中の「死亡者葬儀の事」に興味深い事が書かれております。「先年来本島仏を廃し人民都て神葬祭となれり、終に近年に至り死者あれば全く自葬して牛馬を埋ると同一なり、その原因を尋ぬれば二つの訳あり。其一は神官葬儀に関せば神事に障碍ありとして之を為すを好まず、其二は死者を葬るの礼を弁知せざると又神官等に葬儀を依頼し謝儀を厭うの情あり。よって、神官並人民へ葬儀は必ず神官に依頼すべし自葬は相叶はず御布告之旨を詳知説諭し明治十一年の冬より一般の神官を以って葬儀をなすに至れり」云々とあります。
与論島でも事情は大差はなかったのではないか、むしろそれよりも、事情は複雑だったのです。
「廃仏毀釈」が薩摩藩の場合は他藩よりも徹底されておりましたから、ご承知のように、廃寺以降にアガリデラ(東寺)が復興されることはなかったのであります。又、神官も与論島に常住して適切に指導することはなかったので、葬送儀礼は一族の長老格が執り行うしかなかったのであります。経験された方が、大勢おいでと思いますが、現在の諸作法に異なりを見るのは、マチイニン各自のこれまでの見聞知識を拠りどころに執り行ったからであります。「自葬」といいます。この自葬は全国的なもので、明治5年(1872)6月に政府のほうから「自葬を禁じ、葬儀は神官僧侶に依頼することを命ずる。」と通達がでております。
茶花墓地にある旧家の墓石を見ると、明治24年改葬したと記し、そこには、法名が刻まれております。これ以前に建立された墓石にも、法名が刻まれております。何基かあります。アガリデラ(東寺)の廃寺を機に、葬送儀礼が、仏教様式から神道様式に一変したのではなく、従来行なわれていた諸作法を基にして、その上に、神道式の葬具を幾つか取り入れて執り行われました。これが「ムカシカラ」として今日まで続いているのであります。与論島だけに見られる独特な儀礼様式です。
余談ですが、アガリデラ(東寺)の廃寺以後、幾人かの僧侶が布教のために来島しております。
大正中期に茶花小学校の校庭で「火渡り」をしたと古老が話しております。これは、「火生三昧」と云われる「修行」です。3尺ほどに切った丸太を井桁に積み上げて燃やし、その炎に託して自分の心身の罪穢れを焼き尽くし清めるというものです。最後に、燃え残った木や炭を並べその上を裸足で歩き渡ります。これを「火渡り」と云います。
昭和10年代後半に「ハギハラぼんさん」と呼ばれている方が、娘さんを伴い家族と共に来島なさっております。2年ほど滞在なさったようです。なぜ島を去られたのか、わかりませんが、戦争が激しくなったからでしょうか。滞在中は島民にとけこんで熱心に活動なさったようです。「寄附者 本派本願寺與論説教所 門徒一同」と記された半鐘が現在、個人によって保管されております。
「ますだ佛」と呼ばれている僧侶が昭和30年代前半に高野山からおいでになっております。托鉢をなさって、島内をまわっておられたようです。古老によると「畑仕事をしているときに出会ったので、家にお供して、おもてなしをしながらお話を伺った」と話しておられます。私も子供心に見慣れぬ姿に驚き泣きながらも、お布施をしたことを覚えております。

行事の解説

ヲゥガン(改葬)
「ヤマトゥナガタビヤ、ティヌグイヤクタンヌ、グショウナガタビドゥ、ティヌグイヤクチュル」(大和に長旅しても手拭は朽ちはしない、死での旅なればこそ手拭は朽ちるのである)
改葬を経験した方には納得の行く言葉であります。
身内が亡くなると、いわれる慰めの言葉に、「もう一度会えるから」と云うのがあります。この改葬のことです。
埋葬してから五年目か六年目に、遺骨を掘り出して骨を拭き浄め、専用の瓶に入れて、祀る事を「ヲゥガン」と云います。厳密には、埋葬していたのを掘り出して浄めることを、アラヲゥガンといい、これはジシの時代より行われております。それ以後年を経て瓶の中から再び取り出して、拭き浄める事をマタヲゥガンと云います。マタヲゥガンするのは、ヤブの託言による場合が多く、埋葬になってからであります。
アラヲゥガンを行う前に、葬儀があり埋葬する場合には、日時にこだわらずに葬式の早朝にアラヲゥガンを済ませておき、新仏を埋葬する。また、埋葬後間もなく再び埋葬する時には、アラヲゥガンは物理的にできないので、墓地内の然るべきところに埋葬する。この場合には龕が並ぶことになる。

「ヲゥガン」を遺骨に対する信仰として捉えて、書いている本もありますが、それよりもむしろ、遺骨を通じて亡き人に会えるという、情の厚さから行っていると理解すべきであります。このことは言葉の上からも察することが出来るのであり、また自分で自らの心に問うても納得することであります。
沖縄や奄美の葬送儀礼で、当初風葬や埋葬をしておいて、ある期間の年月を経過して、遺骨を取り出して拭いたり洗ったりして、浄めてから改めて納め直すことを、改葬とか洗骨と呼んでいる。沖縄では洗骨といい、奄美では改葬という」と一般的には理解されております。方言でもそのような意味合いをもっているようです。
ところが与論島では「イチヲゥガミュウラガ、ヲゥガミュウシャーイチガ」と云うように、同じ行事を「ヲゥガン」と言い習わしております。「ヲゥガン」とは「拝する」ことであります。
「改葬」は葬法を表し、「洗骨」は行為し関して使われている言葉であります。それに対して「ヲゥガン」というのは、精神に重きを置いて使われている言葉です。つまり「ヲゥガン」は先祖崇拝の理念の具現された行為であり、遺骨を故人の霊体とみなして、身直に接し拝することであります。このことから与論島の先人達は、近隣の島々よりも、先祖に対する追慕の念が厚く、また、日頃の生活の中でも、常に先祖と身直に関わりあっていたことを物語るものとおもいます。
火葬である現在、「ヲゥガン」によって引き継がれてきたところの、先人達の先祖にいだく心情を、どのようにして将来に引き継いでいくのかが、今日の課題であります。
改葬の具体的な作法の解説はこの場の趣旨ではないので省きます。先ほども少し触れました、改葬の日取りについて近隣の島々について見ていくことにします。
奄美大島(名瀬)は、七年忌から十三年忌の間に行われ、閏月のある年は避ける。また新仏のある家も行わない。地域によって異なるがドンガのシカリ日とカネサルのシカリ日に行う。改葬の時に墓を建てるので、諸事情にもより三十三回忌までには行うことになっている。
喜界島では、三年忌を経た後の柴サシか高祖祭りの前日に行う。ムヤの中の瓶に納めるか或いはティラに葬る。ムヤのない家では平地に墓を建てて祀る。
瀬戸内町では、七回忌の前の年までか或いは十三回忌までには行う。トモチの日(先祖を祀る日)の早朝に行う。野見山ではユンジキがある年には改葬はしない。西阿室は閏年と申年は改葬しない。嘉徳や嘉鉄ではノロの墓は改葬しない。
伊仙町では五年から七年の間に行う。
沖永良部島では、風葬時代には四十九日忌当日に改葬したという。今日では三年を基準として墓地の土質を考慮して五六年を経て行っている。庚(かのえ)や辛(かのと)の寅(とら)か申(さる)の日をよしとする。戊(つちのえ)己(つちのと)には行ってはいけないとされる。閏年は墓を掘ってはいけないとされ、友引きの日は避ける。家族に寅年や申年の人がいるとユタに占ってもらって日を選ぶ。遺骨は沖縄より取り寄せた専用の瓶(ヤザラ瓶、厨子瓶)に納めて、墓碑の後方に上部を出して埋める。或いは墓碑の下に埋めて置く。昭和四十六年より火葬が行われたが、遺骨はヤザラ瓶に納めて安置している。今日でも埋葬と火葬が並存する。
今帰仁村では、三年から七年までの間に洗骨する。今日では、火葬によってなくなった。
具志川市では、通常は同一墓に門族内に死人がある時に行っているが、十年以上も葬儀をしないときには、目出度い事だとして日を占って洗骨する。

サンジュウサンニンキ(三十三年忌)
「ウマリティナナケー、シジナナケー」という言葉があります。
「ウマリティナナケー」は十三、二十五、三十七、四十九、還暦、七十三、八十五歳の各歳祝い。「シジナナケー」はユノイヌトートゥ(一周忌)、ユンチュユノイヌトートゥ(三回忌)、七、十三、十七、二十五、三十三の各ニンキドウトゥのことであります。古くは、三、七、十三、十七、二十三、二十七、三十三の各年忌でしたが、二十三と二十七の間の二十五年を採り、一周忌を加えました。厳密には一周忌は「ニンキドウトゥ」とは言いません。
人が人として産まれて、巡ってくる生まれ歳毎に祝い、そして亡くなってからはニンキドウトゥを、それぞれの忌日に供養して、所謂、人として接する最後に当たるのが、この三十三回忌であります。それで、最も重要なマチイグトゥになっており、主催する側はもとより、参列者並びにその家族は、キレー(禁忌)をする習わしがあります。キレーの風習は明治期以降に、行われるようになったものであります。これより後は「サキユウスグチウァーチャルウヤカミ」(先祖霊)となるので、ミジヌパチ(月命日)は、ご飯ではなくアレーグシ、グシメー(洗米)をお供えし、命日にはしないで決められた日に先祖と一緒に供養をします。
三十三回忌は、十三仏思想を拠り所とした、仏教の行事であります。十三仏思想とは、十五世紀頃から盛んに信仰され、各々の年忌に縁のある仏さまを配置して、その本尊の加護を願うものであります。ちなみに、初七日は不動明王、二七日は釈迦如来、三七日は文殊菩薩、四七日は普賢菩薩、五七日は地蔵菩薩、六七日は彌勒菩薩、七七日は薬師如来、百日は観音菩薩、一周忌は勢至菩薩、三回忌は阿弥陀如来、七回忌は阿閦如来、十三回忌は大日如来、そして、三十三回忌を司る仏さまは、虚空蔵菩薩であります。虚空蔵菩薩は、宇宙の真理を一心に収めた仏さまであり、御霊はこの仏さまに導かれて、宇宙の大真理の中に住することになる。「ティンヌブイ」と云うのはこのことであります。またこの仏様は他に学問や芸術の仏さまとして尊崇されております。さらに陸、海、空の安全を見守って下さる仏さまとしても馴染み深く、丑年と寅年生まれの人の守り本尊でもあります。名前は、虚空のごとく無尽蔵に、本誓であるところの、財宝や智恵等全ての徳を施してくださる仏さまであることに由来します。
三十三回忌は、「個人としての霊」から個を超えた「先祖霊」になるための最も重要な行事であります。ですから、年月が如何に経ようとも必ず行はなければならないとされております。全国的に三十三回忌は、「弔い上げ」と称し故人の御霊は昇天するので、この忌でもって法事を了わる風習があります。それで、それまでの年回忌は塔婆を立てて供養するが、三十三回忌には生木を立てる慣わしです。一番天に近いのは木のてっぺんだからであります。そこから天に昇って行かれるわけです。
ウークイは、通常は門まで送るのであるが、海難事故で亡くなった人の場合には、霊は竜宮にあると信じられており、バシャグキブニを仕立てて海に流す。バシャグキブニとは、芭蕉の葉の真中の茎を六十センチほどにして、数本並べて竹を通して筏状になしたものであります。そのバシャグキブニに、布に誰々の三十三回忌と書いて帆を造り、筏の上に衣や手拭いや供物を載せて、筏の先に紐を付けて、腰の浸かる程の所まで引いていき、沖に流してあげる。このように聞いております。六・七十年前までは行なわれていたようです。
三十三回忌の設へでは、家の大小、部屋の広い狭いに関わらずに、桟敷席を設けるようです。かつての家は造りが小さく、大勢の人々が入ることができなかったので、桟敷を設けていた。その名残りでありましょう。さらにまた、子孫繁栄に依り家の中に入りきれない程の、大勢の人々が集まって供養しておりますという、精霊に対するトゥイムチでもありましょう。なお、この場合の桟敷きは座敷きより一段下げて作る習いであります。
巷間で、三十三回忌は「ヨイ」であると、云われておりますが、これは間違いであります。「ニンキドウトゥ」というように「トウトゥ」であります。しかも最後の重要な「トウトゥ」なのであります。三十三回忌は、諸般の事情で勤め上げるのは難しいことと、故人に対しての最後の法事であるということから、無事に勤めたということは、ある意味では、めでたいことだというところからからきたものであります。私たちは、百歳を超えたお方が亡くなると「イキガミサマデールムヌ(ティイチヌ)ヨイデール」と云いながら葬送の儀を執り行うのと、どこか似通ったところの心情の吐露であります。
三十三回忌に歌舞音曲を行なうのは、古くに行なわれていた歌舞音曲の供養の流れというよりも、むしろここのところの曲解からきたものであります。いつごろから行なわれたのかは明らかではありませんが、明治期までは遡れないようです。

また、「三十三回忌は延ばすほどトゥイムチである」と云われているのは、極言すると「イキメーシムヌヌ、イイパンシ」(ずぼらな人の言い訳にすぎない)であります。「キレー」により、アラヲゥガンをしていない埋葬者がある場合には、済ませてから行はなければならないと云うことや、葬儀を出した年には出来ないとか、いくつかの事情があるあるにしろ、随分と乱暴な言葉であります。重要且つ重大な行事ゆえの、物心両面の準備不足より出てきた言葉でありましょう。
「ナービヌカミ」云う言葉があります。「中辺の霊」とでも言いましょうか、期日は来ているのに、「ティンヌブイ」が出来ずに、先祖霊として祀ってもらえず、だからと云って留まることも出来ない、中途半端に拠り処のない霊ということです。「ナービヌカミネーシ、アワリヌムナーネンヌ」と言われ、三十三年忌を必要以上に延すことを諌めております。
法事は全国的に、正当年月日よりも期日を早くして、引き寄せて行うのが通例でありますが、与論島では法事は祥月命日に必ず行う。施主や親族の都合でもって、日時を変更することはしない。しかし近年では必ずしも、厳格に守られているとはいえないようです。
具体的な、お供えの仕方や式次第は略します。とても大事な事柄ですので面授で時間をかける必要がありますので。
法事は全国的に、正当年月日よりも期日を早くして、引き寄せて行うのが通例でありますが、与論島では法事は祥月命日に必ず行う。施主や親族の都合でもって、日時を変更することはしない。近年では必ずしも、厳格に守られているとはいえないようです。
具体的な、お供えの仕方や式次第等は今度機会のあった時にお話しさせて戴きます。

イャープジ(エープジ)お盆
イャープジ(エープジ)は、全国的に行事が簡素化されている傾向の中にあって、今日なお旧習を伝へ懇ろに執り行われております。
エープジ(盆)の由来は、もとは古いインドの習俗に端を発し、仏教の布施の教えと中国の孝行の教え、それに日本古来の先祖に対する信仰とが、習合されてできた日本独自の、先祖供養の行事であります。記録によると、わが国でお盆が行なわれたのは、推古十四年(606)が初めてのようです。当時は貴族社会だけで行はれており、今日伝わっているのは、室町期からであると言はれていおります。
関東地方では新暦の7月13・14・15日に、関西では月遅れの盆と称して新暦の8月13・14・15日に行われております。

与論島ではご承知のように旧暦の7月13・14・15日に行れます。月日や設えなど経典に基づいたものです。アガリディラの下で行われていたのが、ほぼそのままの形で今日まで伝わっております。十三日に墓参りをして、「本日よりお盆に入りますので、自宅でご供養をさせていただきます。」という旨述べる。盆を迎える前に、本家へ赴き、酒、米等をお供えして、ご先祖にお参りをする。本家は分家に同じほどの物を持たせお供えさせる。イエープジヌメーヤ、イゥードゥトゥイムチといわれ、日ごろ漁に出る機会のない家でも、お盆になると必ず漁をして、魚介類をお供えすることになっている。三日とも漁に出かけ、その日に獲たものをお供えする。礼拝の仕方は、線香を三本立て、二礼二拍手一礼して、報恩に「ご先祖の御陰を被り、これだけのお供えをすることができました。どうぞお上がりください。」という旨申し述べて二礼二拍手一礼する。線香を三度立て替え一座とする。その間家長はその場を離れないで、お酒を注いだりしてご供養をする。一座が終わると、家庭で料理して出した供物は、その場で食する。先祖の見守る中で、家族一同揃って食事を取り、一体感を確かめるためである。その場で家長は、先祖や一族等の話をして聞かせる。十三日、十四日、十五日とも同じように供養をして、十五日は三度目の線香が、中程まで燃えたところで取り出して、花を添えて酒を注ぎ、門まで行き「来年もまた精一杯のご供養をさせて戴きます」という旨述べて送る。門の上方清浄な処に置く。
お供えの時間は、十三日の日は、ご先祖はこの日の来るのを、待ち焦がれているからとして、夕方の早めにお供えする。十四日には、ご先祖は親族の家々を廻ってからおいでになるからと云う理由で遅くする。(ここのところが面白い。我が家にも親戚のご先祖が早々とおいでになるのではないか)十五日はウークイ(ウウクイ、御送り)があるので早めにする。
精霊棚は表座敷に南(庭)向きに設へる。新しい(清潔な)畳あるいは筵を一枚敷きその上に膳を組む。近ごろでは膳の替わりに大きな座卓を用いている。お供物として、花(時花)、香(線香)、水(清水)、酒、米(洗米)、他家よりの供物、家庭で料理した百味(山盛りにしたご飯、幼逝した者への握り飯、野菜、果物、魚介類を煮たり炊いたり焼いたりした物)をお供えする。アラヲゥガンが済むまでは別盛りにして供える。(三十三回忌が済むまでともいう)もちろん、魚介類を除き精進料理である。また畳(筵)の上に直に上座にサトウキビを置く。これはご先祖の杖とも云い、また、ご馳走を風呂敷に包んで持ち帰るときに風呂敷きを挿すための棒とも云う。下座にはアダンの実を転がして置く。これはヤンソイ(子孫の絶えた霊)の為である。所謂、施餓鬼である。近年アダンの実に似ているからとパイナップルを果物としてお供えしているが、これはアダンの代用にはならない。これらは、ウークイのとき庭に打ち投げておき、口にしてはいけないと伝わる。沖縄のある地域では、これに似てサトウキビは杖と云い、アダンはウウクイの時に庭で転がしてご先祖のお帰りになる車と云う。最近では代用にパイナップルを転がすと。
神道の影響をうけ、神はいつでも高天原から降臨するので墓所へ行き神迎えはしないといい、また、精霊棚を神棚に向けて設えている家もある。
イヤープジは各家庭の先祖や親戚について、更には命について語るいい機会であります。例えば、線香の点っている間とか適当なところを見計らって、有効につかいたいものである。
カンビン釣り
お供物の側に置いてある酒の入っているカンビン(銚子・とっくり)を、お供えをしている人が居眠りをしたり、用事でその場を離れている隙に、物陰からこっそりと釣りあげ、中身を頂戴するのである。明治期以前の若者の遊びであったと聞く。しかし、昭和十年代まではたまに見られたと云う。かつての、「トゥンガモーキャー」と趣向を同じくする。

シニュグ
シニュグは、民俗学者の間に取り上げられて、様々な角度から研究されております。
シニグは、明治初期より二十年ほど中断されていたことや、それを司る人を取り巻く諸事情により、一定しないのでありますが次の事が基本であります。旧暦の七月十六日に神を迎える為の準備をして、十七日にお祭りがあり、十八日は休み、十九日に後片づけをする。
「エープジ」が私たちの身近なご先祖への供養であるのに対して、「シニグ」は一族の遠いご先祖への供養であり、その先にはさらには与論島の起源までも見通す事ができると思います。十七日に行われた歌舞「シニュグヲゥドゥイ」と云われ、各サークラで踊られていたのが、後年一箇所(現在の地主神社の境内)に集められて踊られ「サトゥヌシヲゥドゥイ」と云われた。今日の十五夜踊りの起源であります。

ショウガチドウト
与論島独自の祀に、ショウガチドウトゥとパチガチドウトゥがあります。
ショウガチドウトゥは、元旦または二日(祀る家により異なる)に行なわれております。与論島の習俗には現在でも旧暦を用いておりますが、この祀りだけは、昭和三十年代以降の新暦の普及により、一時期新暦で行っていた。その後正月の行事と重なるとの理由で再び旧暦に戻っております。
ショウガチドウトゥは、海や池などでの水の事故による、死者や変死者また行方不明者等への供養であります。水死者の霊は龍宮にあり、この供養を行わなければ、幽霊となって浜辺をさまよい、機をみて家族を溺死させたり、災いを蒙らしめる。しかし鄭重に供養すると、子孫を海難事故から守り、繁栄をあらしめる。このように信じられており、毎年行われております。
いつ頃から、行われているのかは不明でありますが、野口歳蔵氏は『南島与論島の文化』(二八八頁)で、「シナパッタイの祖先に海で亡くなられたひとがおり、そのヲゥナイが大変哀れに思い、海神に冥福を祈り、このような事が二度と子孫におこらぬようにと願ったという。これが、ショウガチドウトゥの始まりである」と古老(田畑嶺富翁)の話しとして掲げておられる。

パチガチドウトゥ
パチガチドウトゥは、旧暦の八月一日から四日までの間の一日に、ショウガチドウトゥとほぼ同じ様式で行われる。理由は不明であるが八月二十三日に行うところもあると聞く。この祀りも起源は不明である。「昔はこのまつりを行う家は稀であったが今はこれを行わない家のほうが稀である。」『与論島郷土史』(増尾国恵遍述)と言われている。原則として男系の子孫に参加の義務があり、世襲である。
生前に、チトゥミニン(役場勤務、村長、助役、収入役、書記など)、デージン(神職)、ノロ(祝女)、大工、鍛冶、サトゥヌシヲゥドゥイ(籠踊、十五夜踊り)の踊り手などの様に、一般(農業や漁業)の人々と異なる仕事に携わっていた人の、業績を称へ敬う祀りであると云われている。これらの人々は、島の統治者であり、指導者であり、霊力の保持者であり、新しい技術の導入者である。祀られる人が生前に残した記録類や身に着けていた物、使っていた道具など、遺品を供えて祀る。鍛冶職人の場合は、自宅だけでなく鍛冶屋の場所でも行われる。
自宅で主催者として祀りを行いつつ、さらにその本家に参加者として行くところもある。もちろん、祀る霊は別である。また、由緒のある家系では、個人の霊ではなく、総じて先祖霊として分家が集い祀るところもある。

ショウガチドウトゥは祀る霊の冥福を祈り、子孫の息災を願うことであり、パチガチドウトゥは祀る霊の遺徳を偲び称え、子孫の繁栄を祈ることである。これらの霊は子孫を見守る霊であり、祀る精霊に対し何か願いごとをする事はなく、供養するのみであるともいわれるが、一般的には祀るのを怠ると荒神となって、子孫に祟るとされ、恐れられている。
「ショウガチドウトゥ」や「パチガチドウトゥ」を興味本位で覗いたり、「パチガチドウトゥ」の遺品を見たりすることは、厳に慎まなくてはならない。これらの祀りの参会者は決まっており、一度この祀りに参加すると、以後は必ず参加しなければならないとされる。もし、これを守らなければ、祟りがあると恐れられており、一般には敬遠されている。
ショウガチニゲー」「パチガチニゲー」と云うこともあるようですが、正確には、「トウトゥ」です。トウトゥは供養と理解しておりますので。「ニゲー」は祈願にあたります。現世での幸福を神仏に祈るのが「ニゲー」であり、「祈願」にあたり、それに対し後生の精霊の安穏を願うのが「トウトゥ」であり、「供養」に当たります。

語句の解説

葬送儀礼に関するいくつかの語句や所作などの説明です。

ナヌカミシャー ククヌカミシャー」
与論島では改葬をはじめ、墓石の修復や建立は、決められた日に行なわなければならないと、巷間では云われています。これは誤解から生じたことであります。
明治42年(1909)に鹿児島より、桃内音吉神職の来島により、菅原神社と厳島神社が琴平神社に合祀されております。明治39年(1906)政府の神社合祀令の実行のためであります。
その折に、当時の神職方の合議により「3月と8月の27日と29日の日は各自で改葬や墓石の修復建立を行なっても差し支えなし。その他の日は、神職に依頼するように」と決められました。
その時期は、埋葬を徹底した時期とも相応しており、「ヲゥガン」の対処を講じなければならない時期と相俟っております。
そこで、「これらの日には、自分たちだけで出来る」さらに「この決められた四日以外の日は、改葬や墓石の修復建立はしてはいけない」と曲解されたものの様であります。もちろん、正確に把握している人々もおいでです。
ちなみに、沖永良部島の和泊では寅・申の日を良しとし庚・辛はよく戊・己よくないと云われているようです。干支に依っております。近隣を見まして、月日に依るのは与論島だけであり、何故これらの日に決められたのかは不明です。

「トウカナヌカ」
大野上蔵神職の時代に出来た言葉です。
大野上蔵氏は、与論島の出身で神職の資格を持った始めての人である。と伝わっております。人徳優れ「カミゾウ、ウプスー」と島民に尊敬されていた御方であります。

昭和の初期に、世情を鑑み、世情と云いますのは、ご承知の通り戦時下の事であります。出征軍人の戦死者の葬儀は村葬によって執り行はれておりました。戦争が激しさを増すと共に戦死者の数も多くなり、従来の七日毎の七回、四十九日の祀りは大変だから、十日毎に行い三十日で切り上げる事を、提案され実行されました。そこで、十日を「ナヌカパジミ」「チュナヌカ」と従来の呼び方をして、三十日を「ミナヌカ」と云うようになった。老齢の方は今日でもこの言い方をしております。「トウカマツリ」と云う言葉が使われるようになったのは、昭和四十年代ごろからであように記憶しております。
尚、仏式では、七日毎に七回、四十九日で忌明け(トゥクアギ)を行いますが、神道では十日毎に行っております。
此の辺りの事情を伝えるのに、仏事・神事対照表とも云える物が旧家で保存されております。其れによると、縦二十五センチ横四十センチほどの板に、上下二段分け右より縦書きで仏事その横に順に一七日
二七日三七日四七日五七日六七日七七日と書き、下の段に同じように神事十日二十日三十日四十日五十日と書いてあります。上部二ヶ所に穴を開け吊るせるようになっているのは、何処か然るべき所に吊るして使っていたのでありましょう。

「マチイニン」
自葬の時分からの慣わし、東寺の廃寺以降の葬儀はマチイニンを中心に執り行われた。一族の長老格の方が任に当たる。

 北枕
「北頭西面」お釈迦様がお亡くなりになったときの姿勢。通常は顔を西向きにしないで上に向ける。地球の自転方向や形を考えると北半球では寝る時に最適状態と云われている。

「七回着替えをさせること」
「モイシャルピチュヤ、シークンチンタナヤ、アワリシュン」(亡くなった人は、四十九日までは、修行に励んでおられる)と考え「ナーキバイキバイ、シチウヮーリョーヤー」(夫々の立場で以って、ご修行に励んで下さい)と云って見送る。

人は、死後七日目毎にその係りの仏様の元に行って修行をなさる。それぞれの仏様のところへ行くための、身だしなみとして着物を着替えるのである。七日毎の七回終わり四十九日を忌明けと云い、ここで行き先が決まる。
「グショウヌジョウヤイチジョウ、アミダジョウヤナナジョウ、スリアキティミリバ、ウヤヌイメイ」(死での門は一つ、阿弥陀様への門は七つ、そっと開けてみると、親がおわす)


「ウプガミヌミジ(末期の水)」
「うぷがみぬみじ」と言われているのが、「末期の水」のことです。お釈迦様がお亡くなりになる直前に水を求められたからと伝えられています。。湯灌によって身体の外を清め、水を上げることで身の内を清める。現世での口から入れる最後の物である。現在では唇を湿らすほどであるが、往時は実際に沐浴をさせて口を開けお椀で水を差し上げた。

「お碗の蓋はなぜしていないのか
家庭に食器が充分に備わっていない時期には、大勢の人が会するとサンキャの葉やサンニンの葉を切って器の代用にしていた。吸い物椀が島内に入るようになった頃は、お碗の蓋も器として使用した。その後、食器が十分に出回るようになっても蓋はせず使用した。蝿等が止まらないように追い払うのが年老いた人の仕事であった。そのうちに、葬儀の際には吸い物椀には蓋をしないと云う事がのが慣わしとなって、ラップが出回るようになると、わざわざ蓋を除いてラップをかけるようになった。現在では、吸い物椀には蓋をする、というのは常識以前の事であるが、移行期には、これまでの常識を変えると云う事の難しさがあった。

「サンシキ
サンシキは桟敷のことである。祝いの席は畳と同じ高さ。葬儀や法事は一段下げる慣わしである。葬儀は、急ごしらえと云うこともあろうが、先人たちの、亡くなった人や遺族に対する哀悼の情からであろう。三十三回忌は、形式的にでもサンシキを設える。家の中に入りきれないほどの人々でもってウトゥイムチ(御供養)しているという心を故人に伝える為にという。

まとめ

今日に伝わる、与論島の葬送儀礼を中心とした習俗(カミポウ)は、神鏡に向かい玉ぐしをささげ柏手を打って礼拝する以外は、所々に「ヤブ」の影響も見られますが、それを除くと、全てがアガリデラ(東寺)時代の諸作法の継承と考えてもほゞ間違いではありません。
その要因には、アガリデラ(東寺)廃寺後に僧侶に代わり、資格を持った神職が常住し神道様式を徹底しなかったこと。その事によって、諸作法の全般にわたり、一族の中で然るべき立場の人(マチイニン)が、今までに見聞きしたことを拠り所に執り行うようになった。そこで、根本は同じだけれども細かいところになると、人それぞれによって異なると云うこと生じてきました。「ターガ、エーシキキボーナユンゲーラ、ワカラジ」と、どの人の指示を本に事を運んでいいのか戸惑うのです。日頃誰しもが経験しているところです。そしてなによりも、先人の「ウヤカミヌメーチキドウリ」(ご先祖の仰せの通り)の生活信条が根強かったこと、これをを挙げることができます。
時折「与論島の宗教は神道である」と、云われますが、それは明治以降敗戦までの学校教育によるものと、神社はあるが寺院が明治以降存在しなかったことによる面の、双方にあるものと考えます。見てきましたように、与論島の信仰形態は、ただ単に「神道」か「仏教」か、また「何々」かと云うようにハッキリと区分けすることは出来ません。ご承知のように私たちは「先祖崇拝」を生活の中心に置き、それを拠り所としております。論題を「与論島の習俗(ユンヌぬカミポウ)」としたのはこの理由によるものです。
私たちの先人たちは、
「ヲゥガン」を通じて、祖先との絆を深め、日ごろ常に「ウヤカミ」と身近に接しておりました。そこで培われたものは、目に見えないものに対する畏敬の念であり、「カミプトゥキ(神仏)」と同じように先祖に対する敬虔な心であり、素朴ではあるが人生に対しての深い洞察力であります。このことは、諺や諸作法の言い伝えの中に豊富に残されております。端的な例が、先祖供養を「トウトゥ」(「有難う」ではなく、「尊い」の意味)と云い、お盆の行事を先祖を意味する「イヤープジ、エープジ」と同じ言葉で言い表している等であります。
習俗は時代に沿って移ろうものでありますが、実生活のみに目を向けて、簡素化の名の下に先祖の「こころ」を切り捨ててはならないのであります。先人達が大切に守り続けてきた、先祖を尊び敬う心、目に見えない世界を見る「こころ」を、将来に伝え渡していくことが、今を生きる私たちの勤めであり義務であると考えております。そのためには、時代にそぐわないものは思い切って変えていく決断を、そして、先祖の「こころ」を形にするために、新しく作法を編み出す知恵を生み出すことが必要であると痛感しております。以上です。暑い盛りです。エープジを間近に迎えます。くれぐれも、体調には気を配って、お暮らしください。ありがとうございました。