念 珠 に つ い て の お 話 し
念珠(ねんじゅ)は数珠(じゅず)とも云う。釈尊在世以前よりインドで修行者の間に用いられている物で、数を取るのに使われている。
<種 類>
種類は、基本は百八個の珠を連ねたものである。百八珠を本連と云い、半分の五十四珠を半連、さらに半分の二十七珠のを四半連と名付け、四十二珠、二十一珠、十八珠等々ある。百八珠は百八煩悩を表す。百八煩悩の数には諸説あるが其の一つに、六根本煩悩に六道(趣)と三世を掛けた数で百八とする。六根本煩悩とは貪欲・瞋恚・愚癡・慢心・疑惑・邪見。六道(趣)は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人。三世は過去・現在・未来。また、前世・現世・来世。ちなみに除夜の鐘を百八回撞くのは、これらの煩悩を驚覚し目覚めさせるためである。
<形>
形は、インド、スリランカやチベット、日本等の地域で異なり、さらには日本も各宗派によって異なるが、全て丸みのある珠で作る。ここでは真言宗で用いる本連の念珠をみることにする。百八珠を半分の五十四珠づつに分ける大きな珠二個を母珠(もしゅ)または梵語で達磨(たらま)といい、珠を連ねる糸の結び目のある方を緒留と呼ぶ。母珠は阿弥陀如来の徳を表し、各珠を連ねる紐は貫線といい、観自在菩薩の徳を表す。達磨より数えて七珠と二十一珠との次に小珠が合わせて四珠ある。四親近(ししんごん)と云って、阿弥陀如来を取り巻く四菩薩である。母珠と緒留とから垂れている房に各々五珠づつ十珠の小珠があり記子といい数を取る珠である。十波羅蜜に配する。記子の末にある二珠を露または福智の二厳(にごん)といい母珠の側を修生の徳(修行によって得られた徳)、緒留に付くのを本有の徳(本来もっている仏の徳)に配する。母珠の側に記子との間に補処の弟子と呼ぶ小珠がある。観自在菩薩である。
<材 質>
材質には、金、銀、宝石、木の実、木等種々あり、修する法により異なるが、一般には菩提子或いはこれに凖ずるものを用いる。
<取り扱い>
数を取る時は達磨を越えず片方のみをつかう。数を取る方を修生、もう一方は本有を意味する。五十四の修行段階を経て最後は仏の位であるので、それ以上の修行はあり得ないから母珠は越えないのである。念珠の掛け様には幾多もの習いがある。
念珠は、元来数を取るための法具であるから、摺らないのが本義であるが摺る場合は軽く二三回にする。たまに、煩悩を砕くんだとジャリジャリと音を立てて摺るのを見かけるが、真言宗においてはそのようなことはしない。煩悩即菩提の立場より砕き無くさなければならない煩悩はないからである。煩悩の塵に覆われた菩提を現さんがために軽く拭き払うを意とすべきである。
上:装束念珠と呼ばれている。晋山や落慶などの大法要に用いられる。
中:法要一般に用いられている。また、朝夕の勤行など、普段に用いる。
下:行法に用いる。
念珠は、数を取る法具といっても単なる道具ではなく、仏智の象徴とされ、仏道修行の指標となる意義が込められており、常に身近に置き、鄭重に取り扱わなければならない。